表紙 ロールワリンランタン アンナプルナヨーロッパ再会のネパール
ネパールの話( エベレスト方面)

 今(2007.秋 )から34年前山仲間に誘われネパールへ行くことになりました。この頃の海外の情報入手は大変でありました。地域の地図は大まかであり1ルピーはいくらかすら判らずの手探り状態でした。 案ずるより産むが易し・・・か、 相棒は4歳上の滝さん、彼とは中野に在ったアポロスポーツで知り合いました。 この店にはたくさんの山好きが集まり山行計画を立てたり、報告をしたりと楽しい毎日でした。 滝さんから「君とは気が合いそうですね」と言われ、一緒に山行を重ねることになりました。 岩登り、山スキー、冬山、イワナ釣り・・・・・食当は自分の役割りでした。滝さんは一人でネパールに行こうと 家族に話したのですが「一人ではだめです」と言われて自分に話がきたのです。

1973年1月22日 羽田からインドのカルカッタへ。山仲間や家族の見送りをうけて出発です。途中バンコクで給油の為一時間位停止、二人はタラップを下り南十字星を探しました、南の国の空気は生暖かく異国の夜風は心地よかった。

23日 カルカッタは朝早くから人々が動き回り賑やかさで目を覚ましました。タクシーで街廻り、広い公園はイギリス風で植民地の影響がのこっていて、片隅にガンジーさんの銅像がありました。ローヤルネパール機でカトマンズへ向かう飛行機がヒマラヤの雪に輝く峰々に 近付くと二人は思わず大声をあげ喜びを体であらわし興奮を鎮めるのにかなりの時間が掛かりました。 周りにいた人々は、「なにがあったの」かと我々を見ていました。カトマンズの空港にはランジャン氏 が出迎えに来ていました。市内に出来たばかりのランジャン氏のホテルは日本風の風呂が有り 気楽に過ごせる雰囲気でした。ラジェンドラ国王と共に東大に留学していたのです、 日本語で対応出来て助かりました。このホテルをベースに我々のトレッキングの旅の始まりです。 街の匂いはお線香とカレーが混じりあったような感じで、空気が淀んで鼻にまつわり付くようでした。   牛が我が者顔で闊歩していました、それも何十頭もいてそこらじゅうにウロウロしているのです。露天の店先に頭を突っ込み 野菜を食べていました、店のおばさんは毎日の事で怒りもせずシッシッと声を出し追い払うだけでした。 牛はこの国では神様の使いなので、ムチで追い払うとムチ打ちの刑を受けるそうです。スキヤキは食べられませんが、 水牛は解体し切り刻んで店先に並んでいます、水牛が可哀そうです。のどかな時間が流れています。 バザールはいつも凄い人出でゴチャゴチャ、この騒ぎの中にポンコツの日本車がクラクションをバンバン鳴らして通り過ぎるのです がこれが大変です。町角には神様の祠やお寺が存在していてお参りの人の波でこれまた凄い。左右の通りには露天の米屋に花屋 香辛料を沢山並べてる店等々のざわめき、毎日がお祭り騒ぎ。

 24日にはシェルパを紹介されエベレスト街道への準備の話し合い、装備の点検等々。 ネパールに着いた時から感じたのは何年も前からこの街に居た様な気分なのです、ポストオフィース前の 公園からランタンリルンが快晴の夕日を浴びて光り輝いて良く見えるのです、すごい感動です、夕食は チベット料理店に入る、ギャコックにモモ、旨いぞ何でも食えそうだ。

 25日ホテルはバングラディッシュ大使館のすぐ近くで静かな所。裏側には池があり国王所有のゾウさんが水浴びにきていました。 今日はカトマンズトレッキングで日本大使館に遊びに行きました。日にち遅れの新聞、週刊誌等が置いてありロビーでゆっくりくつろげました。アサン広場、インドラ・チョーク、ダルバール広場をのんびり歩き回り彼らの生活を肌で感じる事が出来ました。夕方の街は更に人 が溢れ何かワクワクする様な人混みに流されている自分達でした。チベット料理店で夕食、素敵なポストカード買い求め夜遅く迄、山仲間に便りを書いていました、楽しい時間を楽しみました。

26日、シェルパの案内でアサン広場のお店で買出し、我々は現地調達と決めていました。彼は食料を手際よく選び出し計算は店の若者が読み上げ、親父が暗算です、滝さんも一緒に暗算していました。旅先での支払いは小額紙幣を用意したのですが、この量がすごい、アタックザック十分の一程もありました。準備OKです。日本から別のパーティーが到着、今夜はチャン(ネパールのどぶろく)で祝杯です。

27日 チャーター機は天候が悪く3時間遅れで飛び出し、小1時間位いでルクラに着きました。山の斜面の滑走路は小石交じりの所だった、ポーターがすでに待っていた。彼らは我々を待っていたのではない、トレッーカーを待っていたのだ。 今と違いその頃は人家も余りなく淋しい所でした、畑の小道をポーターのあとへ歩き出す、いい眺めだ。畑は石を積み重ねて動物の侵入から守られていた。 シェルパの家の畑にテントを張る。シェルパのお母さん、嫁さん、妹、弟家族全員参加で、お祝いです。

28日 朝から小雪、ナムチェバザールへの登りでエベレストが見えた時は大興奮「うわーォ」「やった」 「すげーェ」・・・・・言葉も無く目を凝らして感動の波に揺られていた、ここまで来たんだと。 ナムチェバザールには4時45分頃小雪降る夕暮れであった。ホテルは薄暗く寒い部屋であった。

29日 雲一点も無い快晴の朝ナムチェバザールから急登でシャンボチェに小1時間で着く、 エベレスト、アマダブラム、タムセルク等々7〜8000メートルの山々が 目前に飛び込んで来た。エベレストビューホテルに着いたのはお昼前、ホテルは建設中であった。登山家の 吉野満彦氏と出会った、彼はトレッーカーを連れて来ていたのだ。午後からは小雪、ここからかなり下り そして急登してタンボチェに着く4時50分ロッジに入る、ここまで来るとエベレストもアマダブラムもすぐ 近くに見える。エベレスト初登頂者のヒラリーさんが建てた小学校もここにある。夜中に何かが燃え大騒ぎ、 シェルパのスンダレくんが裸で寝ていたのにはビックリ、寒くないのかね。

30日、高山病にかかってしまった、今日は沈殿、小春日和のいい天気、外は銀世界だ。滝さんはロッジではがき書き、 午後チベット人が土産物を売りに来たのにはビックリした、どうして我々がここに居ることが分かったんだ。 アメリカ人が尋ねてきた。「ウィスキーが飲みたい飲まして欲しい」と、一本プレゼントしたら喜んで帰って行った。ロッジの隣に巨大なマニ車の小屋があり(経典が書かれている)これを回すとお経を読んだことになると言う現代的?な古い物が建てられている。何回も回したが別によい事も起らない。

 31日、朝から小雪、薄ら寒い、高山病が思わしくない、今日も沈殿、スンダレくんにネパール語を習う。

  2月1日、少し体調が良くなりスンダレくんと二人でアマダブラムへアタック・・・・ダメダーすぐ気分が悪くなる。 ロッジに帰ると滝さんが「お早いお帰りで・・・」と笑顔で迎えてくれた。

2日、ディンボチェに向かう、天気は回復し気持ちがいい、パンボチェのお寺に立ち寄りイエティーの頭の剥製を見せてもらう。 お寺に寄付をして頭にのせ記念写真、後ろにお坊さんが見張りをしていた、3日前アメリカ人が持ち去ろうとしたのを取り押さえたのだ。 世界のイエティー探検隊はここにきて頭をみてからお坊さんに話を聞き勇んで山の中に散って行くのです。いまだ誰もイエティー を見た人はいないのですが・・・・ディンボチェにテントを張るアマダブラム、タウチェ、チョラッチェが目の前だ、開かれた 谷は広々としていて気持ちがいい所だ。夜は満点の星、怖くなるような☆の数だ、流れ星もすごいぞ。二人でよく話しをした、 今は食糧が底を付き主食はジャガイモに変わった、空を見上げて寿司だ刺身だテンプラだと☆に大声で話かけたものだ。 本の話やスポーツの話、夜は長いから楽しい日々だった。満月のこの日、「こんな時は狼の集会日だね」ン、顔をあわせてカルカに 急いで入った。カルカでは夕食の準備、這松に良く似た生木を使った、煤も煙もすごい、彼らはこの中で談笑しているのだ。 ポーターは自前の食糧を持参している、ツァンパ〔ソバの粉〕を練って食べていた。トイレの後は我々は紙、彼らは石を使うのです。 オナラを彼らは人前でしない、我々が出すと大声で笑う、何かあるな、神様に聞こえるとイケナイ事みたいだ。鼻は手鼻だ、失敗 して手に付くと壁にこすり付けていた。文化の違いももう慣れた、なにがあっても大丈夫だ。

3日 ロブチェに向かう、今日もいい天気だ、のんびり行こう、周りの雪も溶け暖かい、トゥクラでお昼、氷河から流れ出る水が 凍結していた。ロブチェのカルカに着いたらまた高山病だ。体はだるく、気持ち悪くて食欲が無い、思考力が衰える。寝袋に入り横になる。

4日 3日の夕方に寝袋に入り4日は死んだ様に寝込んで5日の朝、死の底から起き出した・・・本人は何も知らずの出来事でした。 その日、一日中滝さんは心配で側にいてくれたのでした。

5日 シェルパの肩を借りふらふらになりながらディンボチェに下る。高山病は低い所に下れば直るのです、高い所に登るには 高度順応しなければならない。高度障害になれば下り、直れば登る、これを繰り返せば高い山に登れるのです。

6日 快晴、シェルパの奥さんと妹を解雇する。二人は飛ぶように帰っていった。日数や時間に追われることもなく、のんびりとした 時間を楽しみながら体調を整えることがなによりもの贅沢だろう、幸せであった。滝さんに感謝です。今日も休養。

7日 曇り今日も休養。食料が乏しいのが淋しいね、話は食べ物のことが多くなった。滝さんがザックの中から非常食用に持参した鰹節を取り出した、此処でこんな物が出てくるとはびっくりだ。沢山の山仲間がいるが鰹節を出したのは滝さんだけだった、魚好きは知っていたが。これを小さく割り、口のなかでしゃぶっているとジワーといい味が楽しめるのですヨ。

8日 チュクンに行く、いい天気だ、カルカまで2時間、この先にヒマラヤヒダがびっしり付いた無名峰が屏風の様に聳えている。 ディンボチェ方面を見るとクンデヒマールが見えるぞ、エベレストビューホテルはあのあたりか、わくわくする景色だ。 稜線の向こうはチベットである。ここで昼ねもいいね、いい気分だった。夕方から小雪になる。

9日 快晴 雪は10センチ位降った。シートを出して朝からごろ寝、夕方雲り、楽しい一日でした。元気が出てきたので腹が減ること。回りの山々の急斜面から雪崩の音が響く、凄い迫力だ。
10日 カルカの左側の丘に登る、ケルンが沢山あり眺望は一級品だぞ。ヌプッエ氷河の向こうにプモリが右にローツェシャール、 エベレスト、マカール、アマダブラム、360度巨峰がずらりと一望出来るのだ、ローツェの壁は3000メートルはあるだろうか、すごい迫力だ。時間が止まっているみたいだ・・・・・岩石は太陽熱に焼け黒く焦げついた様な色をしていた、この様な高所にも苔が生えているのである、それも様々な種類が見られた。カルカに帰る途中這松に似た木を集めて、夜キャンプファイヤーを楽しむ。スンダレくんとポーターはカルカから一歩も出てこなかった、外は満点の☆なのに。キャンプファイヤーに使ったあの木はこの厳しい地で何年も何十年も 経てあれまでになったのに、十数分で灰になってしまなった。罪悪感が残る。
11日 ディンボチェに戻り、計画の建て直し、再度ロブチェ行きを決める。シェルパのスンダレくん買出しにでて夜10時ごろ濃霧の中帰って来た どこまで行ったんだろう。

12日 ロブチェに行く、高山病に患う事は無かった。シェルパの嫁と妹がまた加わり今日は歌もでる。カルカの前の氷をピッケルで穴をあけた。厚さ50センチ、15分かかった、コンコンと水が湧き出しその水を頭にかけたら頭髪が氷り付いた、カトマンズを出発してから一度も洗髪していないのでかゆかったのです、ひどい事になりました。チベッタンシュウーズを履いて氷りのうえでスケートをしたらポーター達は大笑いしていました。

13日 ゴラクシェブに向かう、エベレスト登山に参加して亡くなったシェルパの墓が幾つもあった、悲しみの記念碑である。本来ならこの高さでは鳥葬なのだろうが。この国で死者は火葬され川に流され聖なるガンジス川に合流するのです。諸外国の登山隊がアタックを繰り返し沢山の犠牲者を出してエベレストは登頂されたのです、最近発見されたマロニーの遺体も氷壁の中です。 ヌプツェ(7879)氷河をはさんで右側にドッドォーンと仰ぎ見えるぞ、プモリを目標に進む3時頃着く。
14日 ゴラクシェブ曇りカラ・パタール(5545)への登りはどのくらいだったか、ここからの眺望はすごい、エベレストを正面にして左にプモリ、右に アイスホールをはさんでヌプツェ、手前に氷河の交差点だ。我々は氷河の右岸を歩いて来たのだが、ここから見るとすごい迫力だ。 エベレストBCへ行く、羊の角が沢山落ちている、これは遠征隊が生きたまま連れてきて、ここで食べた、その残骸なのです。 カルカに着く頃また頭が痛くなってしまった。

15日 ゴラクシェブの朝は寒風が吹いていた、寒い。ペリチェへ、頭痛が直らない、高度を下げているのに。猫の額程の部落だ。 この部落では、保存して置いたジャガイモを穴から出して分類していた、子供たちも お手伝いです、小指程のジャガイモも大切な宝物のようにしていた。ヤクの背に鞍が着いて、畑にドッコが転がり人里が嬉しい。ポーターが誰かに話しかけていた。「泊めてくれるかねー」「ムムー、いいよ」夜ジャガイモ、翌朝ジャガイモ。

16日 ベリチェからミリンゴへそこから右に曲がりポルツェのカルカに。断崖の山道を行く、今までで一番ヒマラヤの山道みたいだった。 左側は谷へズバリと切れ落ちている、石段は一歩一歩が高く短足にはつらい。尾根をひょいと曲がったら野生のカモシカ?が数頭ビックリしたように見ていた、一瞬とまどいを見せたが尾根と谷へ逃げて行ったしまった、対岸にタンボチェが見える。 大きな石を背負った若者に出会った、屋根瓦にするそうだ、それにしても重そうだった。ポルツェは尾根を切り開いた様な所、両岸が沢で 切り立った所だった。

17日 ボルツェからナラへ、急斜面を登り下りを繰り返しゴーキョを目指して行く、昼飯抜きはきつい、ナラのカルカに日本人のトレッカーがいた、ポーター2名と彼が。彼は高山病になり苦しんでいた、話し掛けても答えが無い、本隊はゴーキョを目指しているらしい。ポーター一人に伝令を頼み、我々は看護にあたる、ここは広々とした河原のいい所だ。

18日 快晴である、滝さんは彼の面倒を看るためここに残る。シェルパと我がポーターのストロングマンの三人でゴーキョ(4750)に行く、湖が3つある。雪解けが始まり湖水に渡り鳥が五羽いた、羽を休めているのだろう絵のように美しかった。時未だ2月半ば南から来たやら北から来たのか初めて見る鳥の姿、ここにも安らぎがある、ヒマラヤの高地に。チョーオュー(8153)がドッドンーと目の前に見えた、彼の本隊にはあえずだった。

    19日 ナラのカルカに本隊が下りてきた、彼はドッコに乗せられナムチェへ向か った。途中ヤクを連れた二人が追いついてきた、手には羊毛を糸にする作業をしながら、目は雪道やヤクに気配りをしている。ヤクの動きが悪いと口笛を吹いて刺激を与える、その時の口笛が山々にこだま して青空に吸い込まれるようだ、雪を踏みしめる音と澄んだ口笛の音だけであった。シェルパに口笛の吹き方を習ったが何度吹いても音は出てこなかった、天気は午後から悪くなってきた、ポルツェ泊り。

20日 ナムチェへ下る、途中荼毘の後がありシェルパがここで以前日本人が死んだと教えてくれた、目を凝らしてみると骨がまだあった のにはビックリした。楽しみにしていた眺めもなくエベレストビューホテルに着く、彼はヘリコプターでカトマンズに無事帰った。 このパーティーの他の一人も死亡したとのことだった、高度障害にやられたらしい、日数や時間が無い計画がこの様な結果をもたらしたのだ、何んとも悲しい結末である。

21日 ナムチェから少し下るとビューホテルの従業員の方にお昼、お茶に呼ばれた、ホテルの菜園係の日本人である。このホテルを建てた 人は宮原さんと言う方でホテル建設の苦労話の本は大変面白い。楽しいひと時であった、がこの高地での野菜作りも苦労の連続らしい。 夕方シェルパの畑にテントを張る、ポーターがシェルパに苦情を言っている、「明日はルクラだから今夜打ち上げをして欲しい」と。 他のパーティーは皆そうしてくれたと。今までの苦労と感謝の気持ちを形に表せということか。早々チャン(どぶろく)とニワトリ、 チャパティ、モモ等を手配してもらい無事祝う事ができたのです。

22日 朝はのんびり、スンダレくんのお母さんに別れの挨拶をすませ出発。周りにも緑が目立ちはじめてきた。ネパールの緯度は沖縄と 同じ、朝晩は寒いが昼間は半袖で大丈夫。ルクラには2時ごろ、飛行機は明日しかないらしい何機か来たが皆だめであきらめてテント を張り終えてホッとしていたら来たのだセスナ機が、バタバタしてアッという間にカトマンズ。夕方ガチャガチャのこの街で再度打ち上げ を楽しんだ。一月ぶりの風呂はホント気持ちがよかった。。

  エベレスト方面の旅はサプライズの毎日でした。夢にみた山々を本当に見た時の喜びは何と言えばいいのだろうか・・・・・・・・。

旅は続きます!
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